メガネ(眼鏡・めがね)のPARIS MIKI

【カオの履歴書】Vol.3 (前編)
CHALLENGER デザイナー 田口悟

2019.09.06

原宿のアパレルブランド、CHALLENGERのデザイナーを務める田口悟さん。
自由な発想でクリエイティブな才能を発揮している田口さんは、まさにプロの表現者。日本のプロスケーター先駆者でもある田口さんが、ストリートカルチャーの世界を通じ、どのようにして今のライフスタイルにたどり着いたかを知ることは、豊かな人生を送るためのヒントになりそう。前編となる今回は、プロスケーターになったきっかけと、「好き」が仕事になるまでの道のりをお聞きしました。



 CHALLENGERのコンセプトは「アメリカン・ガレージ」。夢いっぱいの、自分たちの好きなモノが全部詰まっている場所。2009年に店をオープンしてから、ずっとこの概念でやってます。自分が好きなモノ、自分たちが身に着けたいモノであること。それから、アメリカンといっても、商品は「日本人に合うもの」にこだわっています。だって、僕たち日本人だからね(笑)。Tシャツのサイズやバッグの形も、身に着けてしっくりくるものであることが一番だと思っています。それからサングラス、これも日本人のために作りました。海外のサングラスって、日本人の骨格に合わないものが多いと思うのです。フィット感が足りない。だからブリッジの位置や形、テンプルの長さなど、パーツを細かく調整して、かけて楽であることにこだわっています。軽さも大事ですよね。色合いも日本人の肌になじむようなものを選んでいます。



釣りとかバイク、車に乗っているときには必ずサングラスを使います。バイクに乗るときのサングラスは、その日の気分で選びます。ティアドロップ型も好きです。ライダーファッションですか? 好きな格好をしますよ。僕はトライアンフに乗っているのですが、イギリスのバイクだからイギリスのスタイルに、とは思わないです。ルイスレザーを着なくちゃなんて、まったく思わない。コスプレみたいなことはしたくないです。自分のライフスタイルに合うものを選びます。洋服は好きですけど、着られたくない。自分が好きだと思ったものを着こなしたい。こういう考え方は、ずっと前からですね。僕は物心ついたときから、ずっと自分の好きなことしかしてきてないです。そうやってこられた環境には感謝しかないですけど、好きなことを、ただひたすらやってきたからこそ、生きる術を身につけられたんだ、とも思っています。

 10歳の時に初めてスケートボードに乗りました。僕は横浜、といっても山側エリア、蛍が飛び交うような自然に囲まれて育ちました。当時、同年代の多くが既にスケートボードを始めていて。だから自分も両親に頼んで近くのホームセンターでおもちゃのスケートボードを買ってもらったんです。どうやって乗りこなすかなんて全然知らなかった。初めはデッキに座って、坂道を下るだけ。そのうち徐々に立てるようになって、プッシュができるようになり、見よう見まねでチックタックってトリック(技)を覚えました。ジャンプできるようになったのは、いつだったかなぁ。本物を手に入れてからですね。
 ある日、坂の上から近所のお兄ちゃんがパワースライドしながらガーッと降りてきて、僕らの前でキュッと止まって、開口一番「お前らのそれ、おもちゃじゃん。」って(笑)。彼が乗っていたのがパウエルペラルタというブランドのデッキ。それを見せながら、ボーンズ・ブリゲードというアメリカのスケートボードチームやティーブ・キャバレロをはじめとするカリスマプロのこと、そしてプロが乗るスケートボードについて教えてくれたんです。

「あ、そういう世界があるんだ。」っていうのが分かり、お年玉を集めて、友人たちと本物のスケートボードを町田のハンズまで自転車で買いに行きました。途中、何回かカツアゲにも遭いながら(苦笑)。小学生からお金を取り上げるやつなんて正気じゃないと思うんですけど、そういう苦難を乗り越えて本物を手に入れた喜びと言ったら…今でも忘れられません(笑)。それからというもの、『ラジカルスケートブック』というハウツー雑誌やビデオで研究しながらいろんなトリックを覚えて、どんどんのめり込んでいきました。あの頃はスケートパークなんてありませんから、オブスタクル(障害物)は工事現場から廃材もらってきたりしながら自分たちで作っていました。有る物に頼らず自らの手で組み立てるという過程で想像力が養われた気がします。

スケートボードは技だけでなく、カラダを使っていかに派手に見せられるかを競うのが面白くて。とにかく朝から晩まで滑っていました。通学の時もバスに乗らず、プッシュで駅まで行くのが当たり前になっていました。

 最初からプロを目指していたわけではありません。スケートボードは好きでやっていただけですから。ただいつも走っているうちに、上手な人と知り合うようになり、本格的なスケートパークで遊ぶようになって、競技にも出るようになりました。ほどなくしてAJSA(日本スケートボード協会)が開催するアマチュア大会の年間ランキングで1位になり、翌年20歳でプロになりました。その頃住んでいた横浜の青葉台にスケートボードのショップができて、そこが僕をサポートしてくれたんです。後から知ったのですが、そのお店をやっていたのがBe'-In Worksのカツ(秋山勝利)さんという、日本人ボーダーの元祖のような方で。その人が先ほどお話しした『ラジカルスケートブック』を作っておられた方だと知ったときは、不思議な縁を感じて、嬉しかったですね。
 プロとしての活動は、様々な大会への出場、雑誌やビデオへの出演による宣伝活動などが主でした。2000年にボーダー仲間でMETROPIAというチームを作り、レバンテという会社にスポンサーになってもらい、裏原宿にストリート系ファッションのASANOHAという店を出して、そこで洋服のデザインなんかも手掛けるようになりました。



いきなりデザインを?って思われるかもしれませんが、絵は子供の頃から好きだったんです。描くのも観るのも大好きで。本場のスケートボードを目にするようになった頃、ボードに描かれている絵がすごくアーティスティックで魅了されたんです。特にV.C.ジョンソンの絵がお気に入りでした。真剣に絵を勉強したいと思ったのは彼の絵を見てからですね。

高校時代、週2~3回ほど菊名にあるアトリエに通ってたんです。周りはみんな将来絵の仕事をやりたいと思って来てる人たち。僕は実家がクリーニング屋でそこを継ぐ気でいたから当初は趣味感覚だったのですが、スケートボードの世界が諦めきれなくて、高校卒業前に親に「もう1年やらせてくれ」って頼んだら、「絵が好きなら絵の専門学校に行け」と促されて、それで美術の専門学校に通うことにしたんです。

そしたらそこで森田貴宏 くんと出会い、彼がビデオを撮ってくれて、それをきっかけに先ほどお話ししたMETROPIAを作ることになる仲間と知り合ったんです。そんなこんなでプロになる頃にはスケートボードのファッションやスタイルを理解して、デザインすることが自然と身についていた気がします。ASANOHAへの流れも、興味あることからつながった必然、という感じです。

取材・文/サイトエンジン 増田弥生

気になる後半は、9月20日公開いたします。
デザインのこだわりや東京五輪への思いに迫ります。

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